君は映画「BLEACH」を見たか

 

光チンです。

 

 2018年7月20日公開、映画「BLEACH」を観て来ました。今日はもうそれについて書くしか無いなと思い、久しぶりにはてなブログのアカウントにログインした次第です。

 

このブログは完全にネタバレを含みます。

 劇場へまだ足を運ばれていらっしゃらない方、方々の評価を見てから映画を観に行くか決めようと考えている方の為には書かれておりませんので、ご了承をお願いします。

 

 

俺(と貴方)がどれだけ漫画「BLEACH」が好きか

 愛は定義が曖昧なので、オタクは知識を誇る。知識は目に見えないので、今度はグッズに掛けた金額を誇る。といった具合にオタクという生き物は大虚の階級の如くその武器を変える傾向がある訳ですが、大虚と大きく違う点があるとすればオタクは進化すればする程チープになるという所でしょうか。推しキャラの缶バッジを鎖帷子の如く全身に纏ったお前!お前が最上級(ヴァストローデ)オタクだ!

 ここで殊更に、自分がどれだけBLEACHを愛しているかをエピソードや知識金額で語る事も出来る訳ですが、それをやればやる程このブログが唯の知識自慢大会の様に見えて来てしまうので、その代わりとして声を大にして言わせて頂きたい。俺はBLEACHが大好きだ!ファジーでも良いんです。このブログを読んでらっしゃる方がいるとすれば、貴方もきっと相当なBLEACH好き。君もBLEACHが大好きだ!!

 

映画館に行くまでの俺

 2016年、15年間に渡る連載に幕を下ろした漫画「BLEACH」、俺の当時の空しさは筆舌に尽くし難い物でした。その次のジャンプ、また次のジャンプ……「磯部磯兵衛物語」を読み終えてからアレっ?と思いまたジャンプをパラパラと開き直してしまうのです。「なんか読み飛ばしたな?」と思いながら。

 連載が終わった事は当然頭では理解出来ているのに、半年程はジャンプに対しての物足りなさを拭う事が出来ませんでした。悲しい、寂しいとかではなく、ただただ「空しい」。例えるなら亡くなった旦那様の分まで食器を並べてしまう巨乳未亡人の様な物でしょうか。 

 その、連載が終わった号か次の号かは失念してしまいましたが、ジャンプに一護の姿と共に大きく書かれていたのです。「2018年実写映画化決定!」

 当時の俺はというと生きる希望の何割かを欠いておりましたので、もう何でも好きにしてくれというお気持ちだったのですが、暫くして気持ちが落ち着いて来ますと、今度は自分の中の悪いオタクの部分が顔を出すのです。   「下手なモン作ったら承知しねぇぞ…!?」と、まるでファン代表か、ともすれば作品そのものみたいな顔をしてまだ観もしない映画の粗探しを一生懸命するのです。やれルキアがポニーテールだ、やれ一護が普通の不良っぽ過ぎるだ。恐らく、その頃の自分は映画を観るつもりも無かったでしょう。それだけ、漫画原作実写映画への警戒心を高まらせた映画業界にもその責を押し付けたい気持ちもあるのですが。

 しかし、そこから更に時間を経ますと、いつの間にやら劇場版への期待が高まっているのです。連載終了から2年の間の公式供給への枯渇がそうさせたのか、予告映像の出来が良かったのか、はたまたMIYAVIが出ているからなのか(光チンはMIYAVIが大好き)。恐らく、それら全てが正解なのでしょう。とにかく、 こけ下ろす気マンマンで空虚な義憤に駆られていた光チンはどこへやら、公開の四日も前になりますと同じくMIYAVIが大好きな三種の模様先生に「モヨ!銀幕でMIYAVI観に行こうぜ!」と若干卑怯な文句を用いて誘い出すまでになっていたのでした。

 

いざ劇場へ

 公開日から一夜明けた21日(土)、わたくし光チンと-5種の模様先生(岡崎泰葉ちゃんの誕生日イラストをまだ投稿していないので、その日付から名前の絶対値が上がり続けるデバフを受けている)との二人で映画「BLEACH」を観に行って来ました。まだ心のどこかで実写に身構えてしまっている光チンと、昔MIYAVIのファンクラブ会員だった程のガチのモヨは一貫して「映画の内容はともかくMIYAVIがカッコ良けりゃそれで良いや」といった具合だったのですが、どうやら公開日に観に行った方からの感触が中々に良く、嫌でも期待を高められていました。

 映画まで時間があったので物販を物色。「蛇尾丸のグッズまで出してるのに一護のは斬魄刀呼ばわりだね」「斬月出さない訳か」とか、「いや流石に藍染とか冬獅郎のクリアファイル(アニメイラスト)売るのはおかしくない!?」「何時の売れ残りだよ!」とかあーでもないこーでもないと言いあった後、ドッグタグ型キーホルダーを購入。ドッグタグの形式に合わせ名前、生年月日、血液型と共に所属部隊の代わりにI AM THE REAPERと書かれており、映画とは関係無く普通〜にカッコ良かった為視聴前に買ってしまいました。

 その後、フロントのモニターにて今作の予告映像が流れているのを眺めていた所、以前からやや気になっていた事が明確になってしまいました。「……MIYAVI、今回は喋るんかな……?」

 というのも、2017年公開の映画「キングコング 髑髏島の巨神」にも日本人パイロット グンペイ・イカリ役としてMIYAVIが出演していたのですが、MIYAVIハリウッド出演!の謳い文句に誘われ映画を観てみればセリフ無しで登場は冒頭数分のみという、ソレ目当てに観た人間にとってはあまりに惜しい出番だったのです。その上、先述の予告映像の中でもMIYAVI演じる朽木白哉のセリフは収録されず。半分MIYAVI目当てに見に来た我々にとって今回MIYAVIに台詞が与えられているのかは非常に重要なポイントである上、朽木白哉が一切喋らないのはソレはソレで映画の評価に響いて来るだろうと、期待を高めていた分色々な要素が組み合わさり謎のハラハラを抱えさせられたままシアターへと向かいました。

 

映画「BLEACH」コメンタリー

 期待と不安を抱えたまま始まった映画。冒頭は原作ではお墓参りの回に挟まれる母・真咲との回想シーンから始まる。長澤まさみが母親役やる時代になったかぁ等と考えていると、雨の河原に少女の霊が立つシーンに入り、そして一護を抱いて倒れる真咲のシーンで冒頭部が終わる。

 オープニングを挟んで一護が不良達に謝罪を求める原作通り一話の最初のシーンに移る。「ハイそこの一番クサそうなお前!!」の台詞が好きなので省かれたのは少し残念だったが、アクションも豪快で見応えがあった。不良達が倒した花瓶の供え相手である少年の霊(原作では少女だが、この少年は原作での二話にあたる映画での公園のシーンで蜘蛛型虚ヘキサポダスに襲われる幽霊と兼任の為変更になっている)が、不良達には見えていないシーンが挟まれていた。原作では少女の霊が不良達を脅す為にわざと恐ろしい表情を取るのだが、本来あの場で霊感体質なのは一護のみであり、特別な介入が無い限り不良達にまで幽霊が見えないのは当然である。原作で気になる程の矛盾では無かったが、ストーリーと演出上の整合性に合わせた非常に上手い作りになっている。

 その後、背後から反撃を試みる不良をチャドが投げ飛ばすシーンが挟み込まれる。大島麗一やインコのシバタのエピソードがごっそり削られた状態でチャドを登場させた上に、タフで、無口で、一護が背中を預けられる相手として有効的なキャラ紹介シーンであると感じる。

 舞台は代わり黒崎家のシーンに移る。一護の父・一心は原作と比べるとある程度落ち着いた性格となっており、遅い帰宅の一護を咎める際もジャンピングソバットからヘッドロックへと大人しめ(?)になっている。妹の遊子も、原作では黒崎家の家事全般をこなすスーパー女児だった訳だが、映画では夏梨と同様な年相応の少女として登場する。これら二人の設定の一般化は、コミカルでキャラクタリックな漫画の登場人物が実写で同じ様に振る舞うと発生する悲しいまでの茶番感を払拭し、後述の死神との対比が成される。

 

 部屋に戻った一護がルキアと初めての邂逅を果たすシーンに移る訳だが、私はこのシーンのある一点に注目し、この映画は大成功であると確信した。

 一護の自室は、シンプルな原作とは違い全体的にポスターやTシャツが飾られたロック調となっているのだが、その内の一枚にBad Religionの文字が見えた。このポスターを見てピンと来たファンの方も多いだろう。

 原作BLEACHの単行本、初期の方の巻末には2ページ2キャラずつのキャラ資料が載せられていた。ラフスケッチで描かれたキャラクターや、好きな服のスタイルや好物など一見どうでもいい様な情報が書かれたそのページが私は大好きだったのだが、その中でも取り分けセンスフルで魅力的だったのが、著者久保帯人がキャラクターそれぞれに象徴して割り振ったテーマソングの欄である。

 この、好きな曲でもイメージソングでも無くテーマソングと書かれた関係ある様で無い様な曲たちが非常に好きで、中学時代使っていたiPodBLEACHのテーマソングプレイリストを作っていた程である(このテーマソングには洋楽が多く採用されている為、当時近所のTSUTAYAでは全く揃えられずこのプレイリストが埋まる事は無かったのだが)。

 閑話休題、漫画BLEACHの第一巻の巻末ページには一護とルキアのキャラ資料が載せられているのだが、その一護のテーマソングこそがBad Religion“News from the front”なのである。

 

https://youtu.be/j3BckhP7LTs

 

 漫画の本編、アニメ版や劇場版をいくら観てもこの発想は浮かばない。単行本のBLEACHを読み込んだ人間にしか分からないであろう要素としてバンド名を背景に記すだけで、私は映画「BLEACH」から、そして佐藤信介監督から、「お前の想いは確かに預かったぞ」と言われた思いであった。

 脚本代と広告費を浮かす為だけに漫画原作を利用し、人気のタレントを起用し意味不明な改変を施す実写映画の存在がオタク達を脅かし・憤らせる昨今、ここまで既存のファンの想いと、新規視聴者の興味の調和を取った良い映画にするぞという気概を感じさせるカットが今まであっただろうか。否、きっとあったのだ、今までも。この私の、実写映画に対する取るに足らない恐怖が私の眼を曇らせ、実写版映画という仮想の敵に対し威嚇を取らせ続けていたのだ。このカットに出会い、世界が輝いて見えた。でも、きっと最初から世界は輝いていたのだ。映画「BLEACH」が気付かせてくれた。この世界が最低だと誤解したままで今日一日が終わらずに済んだのだ。気分は関裕美、あるいは槇原敬之である。

 

 その後、一護の背後に居たサラリーマンの霊の魂葬(映画では夏梨の霊感も無い事になっている為、このサラリーマンが一護に取り憑いたシーンも省かれたか、あるいはそもそも取り憑いた訳ではなくその場に居合わせた設定になっている)、一護への縛道(『縛道の一』という台詞のみであり、『』の号は無くなっている。『サイ』という声だけでは視聴者には何事か把握出来ないので、映像向きでは無い鬼道やその詠唱は漫画特有のお楽しみの様な扱いとなるのだろう)、そして虚(フィッシュボーン)の急襲と原作に準えたシーンがテンポ良く展開される。

 虚のデザインも非常に良い。原作の虚に慣れた我々から見ても恐ろしいと思える造りである。原作の真っ白で無機質な仮面とはまた違った、白濁で生物的、民俗学的要素も見える仮面からは化け物と呼ぶに相応しい迫力が滲み出ていた。夜の市街地から浮いた存在として、その異形は間違いなく映画「BLEACH」の表現したかったであろうテーマを体現していた。それは現世(現実)と霊(死神や虚)の対比である。先述の一心や遊子に加え、織姫やたつき、そして雨竜など現実世界のキャラクターはデザイン・性格共に一定の一般化が成されている。これは、今までの一護の日常に、一護の住む空座町に馴染み、溶け込ませる為の演出である。厳密には雨竜は一般人では無いが、日常に溶け込んできた存在として滅却師の衣装を纏わず制服のまま戦い、キザっぽくて冷酷気味な性格も随分とマシになっている。それとは対照的に、虚や恋次白哉浦原喜助は原作のビジュアルに準じている。それどころか、虚の仮面の意匠や白哉ツーブロック等、原作よりも派手になっている部分すらある。その為彼らが市街地に立つと非常に浮くのだ。その、視聴者の違和感こそが一護もまた抱いている感情であり、今作で監督が気を使ったであろう部分だと感じる。グランドフィッシャー戦と、それに次ぐ恋次が駅前・街のド真ん中で行われたのもこの表現の一部であろう。一護の日常に踏み込み、それらを壊す存在を視覚的に表現し切っている。

 この法則から外れるのが、人間から死神、つまり日常から非日常へと踏み込んだ主人公一護と、逆に死神から人間へと変化したルキアである。ルキアのキャラデザインが大きく変更されたのもこの辺の絶妙なバランスに気を使ってのものだろう。映画のルキアの一本括りは、死覇装を纏えば女侍に、制服に袖を通せば真面目な女子高生に見えてくるのである。

 

 翌日、義骸に入り人間のフリをするルキアから、死神の使命として虚を倒せとの命令が下される。ルキアが死神の力を失い戦えないから、という理由は原作通りだが、ここでは一護の霊力が熟成しないと死神の力を返せないの理由がプラスされる。原作ではルキアは義骸の中で魂を癒し霊力が回復するのを待つ事になっているのだが、映画でそれを持ち出してしまうとルキアの霊力が回復しない→浦原喜助の細工→崩玉の存在と連鎖的に設定が繋がり映画の枠内に収まらなくなる為、設定が単純化された物と思われる。それともう一つ、この設定には重要な役割が与えられている。それは一護の長期の目的である。

 物語の主人公には短期の目的(テンション)と長期の目的(モチベーション)が存在すると言われる。「SRAMDUNK」の桜木花道赤木晴子に憧れ、誘われてバスケを始めたり、「アイシールド21」の小早川瀬那が蛭魔妖一から脅迫紛いの勧誘(誘拐?)を受けてアメフト部に入部するのが短期の目的。彼らがライバルの存在や試合に勝つ喜び/負ける悔しさ通して本格的にスポーツにのめり込んで行くのが長期の目的に当たるのだが、原作BLEACH・死神代行篇の一護にはこの内、短期の目的しか与えられていない。家族を護る為というきっかけ(テンション)で死神となった一護は、死神としての使命(モチベーション)に関心を示さず、ルキアからの要請を拒否するのである。その後グランドフィッシャーとの戦いやルキアの連行から「強くなる事」「ルキア奪還」を長期の目的とするまで、彼は第二話の「助けたいと思ったから助けた」の言葉に代表される様にテンションのみで刀を振るうのである。その短絡的で快活な性格が一護の魅力であるのだが、映画では長期の目的に繋がるグランドフィッシャー戦・ルキア連行がどちらもラストシーンに位置する為、映画内で長期の目的を持つ事が出来ない。それを補う為に用意されたのが虚退治による修行であり、最初は原作と同じく乗り気で無かったものの、恋次達に対しグランドフィッシャーを倒して死神の力をノシ付けて返してやると啖呵を切ってからはソレを長期の目的とし、修行に励むシーンに繋がる。

 

 場面は暗転し、恋次と、顔を見せない白哉のカットが移る。グランドフィッシャーという虚の存在が原作に比べてかなり重要視されており、今作のボスとしての風格が形成される。あとMIYAVIが喋った。このシーンで普通に喋った。予告映像での勿体ぶり様な何だったのか。Bad Religionの件でほぼ忘れかけていたが、この瀞霊邸でのシーンも映画BLEACHの評価を決定付けた瞬間の一つである。

 

その後、恋次の奇襲、雨竜の素性と物語がコマを進めて行く。この雨竜が一護に勝負を持ち掛けるシーンでも、原作ファンとして嬉しいサービスがあった。

 雨竜が撒き餌を砕き投げ、それに呼び寄せられた虚が集まるシーンである。ルキアの持つ伝令神機(原作でのガラケーっぽい外見から変更され、仏具の様なデザインとなっている。バッテリー交換のシーンもお洒落で私は気に入った)に蜘蛛型虚が整(プラス)の少年を襲っている情報を受信するのだが、その伝令神機は他にも虚の名前を表示していた。その内の一つに南無灯虚の文字があったのである。言うまでもなくこれはナムシャンデリアの事であろう。

 原作ではこの撒き餌に釣られて大量に虚が集まってくる事で、チャドや織姫など霊力の素質を持った人間達にも被害が及び、そして彼らの右腕の鎧盾舜六花という能力の覚醒へと繋がっていくのだが、その際に織姫を標的にし たつきや千鶴を襲った虚がナムシャンデリアである。映画では織姫とチャドの覚醒は成されず、グランドフィッシャー戦で二人だけが一護の気配を感じ取るシーンに留められている為、このナムシャンデリアにも出番が無い訳であるが、撒き餌に集まった虚の一員として名前だけでも登場させてくれたのである。私は南無灯虚と蜘蛛型虚の名前に注目してしまった為伝令神機画面左上の方に目が行かなかったのだが、もしかするとチャドと戦ったバルバスGの名前もあったのかも知れない。

 蜘蛛型虚の退治に向かった一護はその先で恋次にやられ、雨竜の持ち掛けた勝負は曖昧になる。大虚(メノス・グランデ)の登場も無くなり一護と雨竜の共同戦線はグランドフィッシャー戦まで持ち越しとなる為、雨竜の撒き餌のシーンを踏襲した意味はあったのかという気にもなるが、ナムシャンデリアの名前を見られただけで私はこのシーンに満足である。

 

その後の、満月の夜のシーン、特訓のシーン、そしてクライマックスとなるグランドフィッシャー戦は先述の通りである。お墓参りにて少女の霊(グランドフィッシャー)が豹変し夏梨と遊子を襲うカットは、何が起きるのか知っているのにも関わらず怖くて鳥肌が立った。欲を言えば、グランドフィッシャーは今までの虚とは格段の力と共に知性を兼ね備えた老獪で狡猾な虚なのだから、もう少しベラベラと喋ってくれても良かったと思う。辛うじて「小僧」の単語は聞き取れたが、エフェクトの掛かった声は他の虚の咆哮とそう変わらず、勿体無い印象を受けた。

 

 グランドフィッシャー戦の怪我もそのままに、次いで恋次との戦闘にもつれ込む。今作で始解を行うのは恋次のみであり、初見の方には蛇尾丸の存在が正しく伝わったのかどうかが気になる所である。

 生存本能からか爆発的に上がった霊圧を持って恋次を下した一護だったが、白哉にまるで相手にならず倒れ伏す。グランドフィッシャー戦や恋次戦で見せた派手なアクションも無く、白哉は淡々と一護の攻撃をいなしては目にも止まらぬ速撃を繰り出し、刀を収める。ややクドさを感じる回数のこのやり取りから、今の一護では何度やっても勝てない相手である事がありありと示され、映画的なオチとは違う漫画的なヒキが成されている。

 ラストは原作通りルキアが一護を護る為わざと突き放してみせ、尸魂界への連行を受け入れる。死神としての一切の記憶を失った一護だったが、掌では無く教科書に書かれていた「さわいだら殺す」の一文がここで仕事をし、続編を仄めかすニクい演出で終わる。

 

俺は映画「BLEACH」を観たか

 総合して、今作品の出来は個人的には概ね満足しております。演出上の原作ファンサービスは述べた通りですが、役者の方々、特に死神の三人の演技も好印象でした。恋次役の早乙女太一大衆演劇の出身でこういった演技らしい演技や殺陣は得意分野ですし、その隣で朗々と話すMIYAVIも厳格な白哉らしく、尸魂界篇でのアクションも今から楽しみです。セリフがあって良かったね!

 ルキアを演じる杉咲花さんも、今作のテーマの丁度真ん中に立つ非常に繊細なバランスの役を見事に演じきっておられました。惜しむらくは、手元の演技が若干ちぐはぐに感じた部分でしょうか。公園で一護に「死神は全ての魂に平等でなくてはならない」と説くシーンと、ラストで兄様の裾を掴むとは何事かと怒鳴るシーン。漫画のコマでは無く連続的な映像の中で長い台詞を喋る以上仕方の無い事なのかも知れませんが、どこに置かれるでも無い不安定な両手に目が行ってしまい、凛としたルキアのイメージから若干ブレていた印象がありました。

 

 ソレ以外には特にストレスを感じるカットも無く、非常に滑らかなストーリーの構成となっておりました。水色コン井上昊(アシッドワイヤー)など、残念ながら出番を削られたキャラクターやエピソードはありますが、その分足された設定や改変を加えられた部分に理由や整合性を見出す事ができ、意味のある取捨選択をなさっていると断言出来ます。この、何を表現したいかという明確な意思に基づきしっかりと映画を構成しながらも、それでいて原作ファンへの思いやりも忘れない佐藤信介監督及び映画「BLEACH」製作委員会の皆様には尊敬と感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 そこで、今作を見終わってからある種の不安を感じてしまっております。

 映画がここまで俺に歩み寄り、手を差し伸べてくれているのに、俺はというとずっと漫画「BLEACH」というステンドグラス越しにしか彼らを見ていなかったのでは無いか。原作と比べてどうこう、という価値観の中でしか観ておらず、独立した一本の映画を観ていたのだろうか。

俺は映画「BLEACH」を観る事が出来たのだろうか

勿論、原作の漫画「BLEACH」の思い出を消去してから映画を見直すなんて事は出来ないのですが、向こうが俺に歩み寄ってくれているのだから、俺も映画「BLEACH」に、一つの作品に歩み寄るのが筋なのでは無いかと思い、映画館の公開スケジュールと自分のカレンダーを見比べている最中なのです。

 

ご高覧、ありがとうございました。